神社宝物


銅印(附印笥)

国指定文化財銅印

国指定重要文化財(昭和二九年三月二〇日)

この印は、寛文七年(一六六七)に、徳川光圀によって神宮寺が分離された際、改築造営に伴う土木工事によって、境内のヒノキ(周囲二丈四尺)の大木の根元より発見されたもの。印笥はこの印を納めるためのもので、銅印発見を喜んだ光圀がこれを蜀紅の錦の袋に入れ黒漆塗りの笥に発見の事情を、金文字で書き、社宝として寄進した。 印文は、楷書で「静神宮印」の4文字を、2文字ずつ2行に配し、4周に輪郭を施している。印面は平滑でなく整斉を欠くが、印文には風趣があり、奈良時代神社印中の秀作の一つである。 印面は方形、紐は鶏頭状の莟紐に造り、紐穴を付ける。


紙本著色三十六歌仙

小野小町・大伴家持

県指定文化財(昭和三七年一〇月二四日)

徳川綱條が先代徳川光圀公の遺志を奉じ、宝永二年(一七〇五)秋に静神社の拝殿に「三十六歌仙」の額を奉納したものである。天保一二年(一八四一)正月七日の火災の時1枚を焼失している。
藤原公任が和歌に秀でた36人を挙げ、その作を1首ずつ選んだが、鎌倉時代以降、歌仙崇拝の風潮と似絵との流行により、おのおのの像に歌を題した歌仙絵がつくられた。静神社本は杉柾目に金泥をぬり、上に和歌を浅く彫り込み、金箔を塗り繊細な彩色をほどこした見事な作で、業兼本系統に属し松月幹等善の筆である。


六歌仙絵(徳川綱條からの奉納)

六歌仙絵

水戸藩主第3代徳川綱條が常陸の国(現那珂市静)静神社に徳川光圀の遺志を継いで三十六歌仙絵を寄進した。天保年間の火災でその1枚が焼失し現在35枚が残っている。金泥を塗った板の上に書かれた六歌仙の絵は現存する中では保存もしっかりとした傑作といっていい。写真は柿本人丸(麻呂)裏面墨書 謹具三十六人歌仙和歌であり、紀貫之絵裏面墨書の倭歌とはことなる。柿本人麻呂(丸)や紀貫之、僧正遍照、在原業平、山邊赤人、女流歌人の小野小町、伊勢、中務といった絵も見事に描かれています。


紀貫之三十六歌仙絵裏奉納墨書

紀貫之三十六歌仙絵裏奉納墨書

謹具三十六人歌仙倭歌が柿本人丸(麻呂)裏面の和歌の文字が異なる。


伊勢

伊勢

おもひがわ たえずながるる 水のあわの うたかた人に あはできえめや

平安時代中期の歌人。「伊勢の御」、「伊勢の御息所」と呼ばれる。三十六歌仙の一人。
元慶元(877)年頃生、天慶元(938)年頃没。
伊勢守藤原継蔭の娘。「伊勢」は女房名で、父の官名による。
宇多天皇の中宮温子に仕え、その兄弟である藤原仲平や藤原時平との恋愛の後、宇多天皇自身の寵愛を受け、皇子を産んだ。
後、宇多天皇の皇子敦慶親王との間に中務を産んだ。
私家集は『伊勢集』。『古今和歌集』に二十二首、『後撰和歌集』に七十首入集。女流歌人として高く評価された。


小野小町

小野小町

色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の はなに(ぞ)有りける

平安の女流歌人
809年,出羽国・福富の荘桐の木田生まれ
13才で上京,宮中に仕える
容姿の美しさと優れた才能から多くの女官中、比類なしと称された
六歌仙、三十六歌仙として歌を残す


大伴家持

大伴家持

さをしかの 朝たつをのの 秋萩に 玉とみるまで 置けるしら露

大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父である可能性がある。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


陣太鼓

陣太鼓

市指定文化財(平成15年七月一七日)

徳川斉昭に追鳥狩用の軍鼓として作られた。絵は「八方睨み龍」で萩谷遷喬筆。